ぱくとまのブログ

『ハーモニー』を読んだ

2017/02/13

伊藤計劃さんの『ハーモニー』を読みました。

『虐殺器官』は伊藤計劃先生の鬼気迫る文章力とリアリティに圧倒され、ただただ恐れるしかなかったのですが、
『ハーモニー』はもう少しソフトで、しかし非常に綺麗かつ読ませる文章で伊藤計劃先生の凄まじさに感動するばかりです。

さて、私はいつもいつも感想文と言いながらその本文とは特に関係のない話をだらだらとするのが主なのですが、今回もそんな感じで下らないことをつらつらと書いていきます。
『虐殺器官』は数ヶ月前に読んだのですが、『ハーモニー』はたった今読み終えたところです。
どうでもいいですが、etmlはxml系統の言語なのでhtmlを(意図的に)エスケープしていないこのブログに書き込んだらきっとブラウザで読むと表示が崩れるでしょうね。

意識の話です。

『ハーモニー』では、意識は人間が進化の過程で自己決定を行うために手にした「その場しのぎの継ぎ接ぎ」であり、すべての決定をコンピュータという他者に「外注」して自己決定が不要になった世界では意識は不要であるという結論が導かれていました。
私はこれを読んで、「人工知能には種を維持するという目的がないので意識が生まれない」という言説(どこで目にしたかは忘れてしまった)を思い出しました。
人間(だけであるかは知らないが)が意識、あるいは自由意志を持っている理由は何故なのでしょうか。それは恐らく進化の過程で生まれたもので、ある時意識を持って生まれた、あるいは意識の原型となるものが色濃く現れた個体がその時点での適者として生存したのでしょう。
適者生存、ダーウィンの言葉を「環境に適したものであれば生存する」と書き下せばその対偶は「生存していなければ、それは環境に適していないものである」となり、「環境に適していないものは生存しない」という裏が成り立つとは言えません。
これは言葉遊びでしかありませんが、盲腸や尾てい骨のような使われていないが存在する機能というものはどこにでも存在します。(盲腸は現在は善玉菌を養殖するための器官だとかいう説もあるらしいですが)
しかし、盲腸や尾てい骨は退化していき、やがては完全に存在しなくなるとも言われています。あるいは割り当てられている役割だけのための、もっと効率のいい新たな器官に発展するかもしれません。

さて、現代の人間にとって数十年前に比べて意思決定を行うという機会はずいぶんと減ってきたように感じます。
今日の夕食はクックパットで一番人気のレシピを作ろう。明日の外出の予定はTwitterのトレンドに載っていたあそこに行こう。
現代人は取得できる情報が増えた分、取捨選択をコンピュータに任せる機会も増えたのではないでしょうか。
「今も昔も人間は情報を取得し、それを取捨選択している。何も本質的な部分で変化なんてしていない。」そう言う人間もいるでしょう。
ただ、大切なのは人間の主観ではなく、実際に「自己決定を行わないことが可能になりつつある」という事実なのです。

自己決定を行わない手段として、例えば「誰かの言いなりになって生きる」という手段がありました。
しかし、この手段はその誰かが行う選択が倍になるという問題もありました。
なのでそのような手段は一般的にならず、恥ずべきことともされてきました。
では、今度は「全てのことについて一番人気のものを選択する」という手段ではどうでしょう。
これはテレビやラジオ、新聞が出来た時代から行われていたことで、現代ではとても簡単になりました。
記者がある事柄についてのデータを集め、人気を探り、公表する。現代では検索エンジンがそれを行うようにもなっています。
色々な「現在の」人間の嗜好を分析し、そのなかで最も人気があるものを提示する。
この手段は、多くの「現在」の人間が選択を行うことで選択を代替することが出来ます。
しかし、これには「現在の」人間による選択が必要となります。
では、Amazonを見ていると提示される「この商品を買った人はこんな商品も買っています」はどうでしょう。
これは、「過去の」人間の嗜好を分析し、それぞれの人間に合ったと思われるものを提示しています。
このプロセスには「現在の」時間にいる人間は必要ありません。
もちろん現在のシステムでは「少し」過去の人間の選択が必要ですが、このシステムは一番人気のものを選択する場合と違い、その「少し」を延長することが出来ます。
つまり、「現在の」人間の選択なしに全ての人間が自己決定を行わないことが可能になりかけているのです。

もっと突き詰めていきましょう。近い未来、Amazonの嗜好分析がある点に達し、これ以上人間の選択を入力しなくてもある製品について好む人、好まない人の振り分けが可能となったとします。
この時、必要となるのは個人の人間の嗜好だけです。
ところで、好みというものは、子供の頃に見たもの、聞いたもの、食べたものによって決まると言います。
子供の頃というのは、ご飯も、本も、音楽も、全て親から与えられて育つものです。
誰も離乳食を選り好みし、初めて読む絵本を本屋で選んできてはいないでしょう。
つまり、嗜好を決定するためには自分で選択を行う必要はない、ということです。
この時、人生において選択が必要となる場面は消え失せるわけです。子供に与えるものについての選択?そんなものAmazonに聞けば良いでしょう。「こんな子供が好きな人はこんな商品を買っています」ってね。
ビックデータとディープラーニングにより進歩していく世界は、近い未来にこれの未来予想図を現実にすることが可能でしょう。

Amazonが分析するものは「嗜好」ですが、『ハーモニー』の中でコンピュータが分析していたものは「健康」でした。
「全てのことについて一番健康的なものを選択する」という手段です。
全ての尺度が健康に置き換わり、健康的であることが善であるという価値観が一般的となった社会。
「市民、健康は義務です。あなたは健康ですか?」
二分間憎悪などのワードが一部に出てくる『ハーモニー』では、やはりそういったディストピアSF的な要素も念頭に置かれているようです。

意識が自己決定、あるいは選択を行うために発生したものならば、その選択を行うことがコンピュータに委ねられてしまえば意識は不要なものになります。
仮に嗜好を元にしていたのであればあるいは嗜好を決定するための意識だけは必要であったかもしれませんが、健康には肉体しか必要ではありません。
また、肉体にとっても健康、つまり安定した種の保存を行うためにはそのための選択が外部によってもたらされるならば意識はもはや不要でしょう。

『ハーモニー』は、意識が不要になった世界で退化していく意識が描かれている、というテーマであると私は思っています。
たとえ物語のラストであるWatchMeによる意識の消失が起こらなかったとしても、あの世界では意識は緩やかに退化・消失していたでしょう。
意識を持ち、世界への不和を感じる人間は自殺していき、世界への不和を感じない人間は生き残る。適者生存です。
あの状態が長く長く続いていれば、遅かれ早かれ意識というものは消失していたに違いありません。

SF小説の面白いところは、単なる別世界のフィクション、ファンタジー小説と違って現実からそこに行き着く道が想像できてしまうことです。
未来を夢想して期待に胸を躍らせ、あるいは恐怖に震える、そんな感情さえも人類は失ってしまうのだろうか。
人類が偶然手にした意識という機能は、人類の手からこぼれ落ちてしまうものなのだろうか。
そんな未来への期待と恐怖を夢想しながら楽しめる、とても面白い小説でした。

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