何かをモチーフにする物語がある。何かを引用する物語がある。聖書だったり、童話だったり、クトゥルフだったり。
そんな物語を考察する文章だったりも、モチーフの原典を引っ張ってきたり、引用したりする。哲学書だったり、数学の定理だったり。
そんな物語や文章を読む度に、僕は尊敬や妬みを抱いてきた。どうしてそんなモチーフや引用が思い浮かぶのだろう。この人達の知識の地平はどれほど広いのだろうと。そしてその作品を理解し、語るための知識を持たずに物語や文章を消費することにずっと負い目を感じていた。
ずっとそんな思いと共に日々を送ってきたのだけど、今さっきふと気がついた。「単にその時その場で原典を読み、引用しているのだ」と。作家や批評家は聖書を暗唱する神父ではないし、ある必要もないのだと。
そう考えると、僕は知識の多寡に負い目を感じる必要はなくなった。ではなぜ自分は「そういう」文章が書けないのか。文章を書く前に、原典を読むという労力をかけていないから。単にそれだけだ。
人間の記憶は曖昧で、昨日読んだ本のこともはっきりとは覚えていない。頭の中に付箋のように散らばる記憶の欠片は、日々その数を減らし、文字も擦り切れていく。記憶の欠片をもう一度文章にするためには、頭の中の付箋を頼りにもう一度原典を読むしかないのだと思う。
つまり、僕がやることは、上手いモチーフや引用を読んで悔しがることではない。自分が好きなものを何度も読み、それを読みながら書くことだ。その労力を惜しむことにだけ、負い目を感じるべきだ。