レポート完済しました。今の時点まで。
まあそんなことはどうでもよくて、
なぜ生きるのか、という話です。
なぜ生きるのか。生き続けるのか。
辛いことも楽しいこともたくさんある(らしい)人生を生き続ける理由はなんだろう。
死ぬことは怖い。本能に刻み込まれた根源的恐怖だ。
では、生きることは?
やっぱりそれも怖いのだろう。朽ちていく人生。終わりのある未来。
自分で選択できない終わり。DNAに刻み込まれた死。
僕は、自分が選択できない予定が嫌いだ。
レポートとか、バイトとか、友達が勝手に決めた遊ぶ予定とか、突然かかってくるSkypeの着信音とか。
“文学少女”シリーズというライトノベルがあるのだけど、それに登場する朝倉美羽というキャラクターの、「電話のベルをしつこく鳴らす奴はみんな死ねばいい」という独白に、小学生の頃の僕はとても共感した覚えがある。
人生において最も大きく、最も深刻な勝手に決められた予定は死だ。
ならば、自分で死のタイミングと場所を決められたら幸せなのか?
自殺を考えたことはある。皆そうだろう。それも一度や二度じゃないはずだ。
人は自殺を度々考え、その度に思いとどまる。いや、本能によって思いとどまらせられる。
大抵のヒトという生物は、自分の命すら理性によって扱えないのだ。
絶望による死は、納得できる。生きるに値しない人生であると本能が思い知ってしまえば自殺はきっと楽だ。
では、理性だけで死ねる人間はいるのだろうか?
例えば、相手に捕らえられたスパイ。
例えば、主人の名誉を守るため切腹する武士。
僕はそんな人間になれるのだろうか?
自分の意志は、自分の意志ですべてを決定できるほどに強いのだろうか?
他人に流されたくないと思いながら、自分の舵を握れているのか?
自分は自分の思い通りに行動出来るだけの努力をしているのか?
拠り所の無い誇りに意味はなく、理想を想い祈ることは何も生まない。
自分の選択肢を維持できるだけの意志を自分は発揮しているか?
意志を持てるだけの自信となる努力を行っているか?
自分に誇りを持てるのか?
自分が正しいと思えるか?
自分を信頼できるか?
果たして、僕が自分と出会ったら、どんな反応をするだろう。
その人は、自分にとって対等だと思える人だろうか?
僕は、自分を蔑んだ目で見てしまうのではないか?
現実の自分と自己認識の狭間に、何も出来ない自分を見る。
僕が僕だと認められる自分になれる日はいつになるやら。
色々なものを切り捨てて、後悔するかもしれないけれど。
理想の自分にはなれないのかもしれないけれど。
自分の中の信じられるものだけを見て、思い描く未来へと進んでいきたい。